社長ごあいさつ

President's greeting

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早いもので、2002年7月の創業から10年以上が経過しました。

その間大過なく活動を続けられたのも、偏にお客様の理解と協力の賜と感謝しています。同時に忘れてはならないのは、協力してくださったビジネスパートナーの方々、そして社員みんなの貢献です。そういったすべての人々の意志として、今日、オーバスネイチメディカル株式会社は存続させていただけているのだと喜んでいます。

10年以上経てば、もう創業期は脱していて、経営スタイルや社風がある程度定着していて当然と思われますが、幸か不幸かこの会社はまだ立ち上げ時期のふわふわした感触が社内のあちこちに残っています。今あるものを守ろうとする人よりも何かしら新しいことを始めたがっている人、未来を不安視する人よりもどこまで成長できるのかワクワクしている人が多いのかもしれません。

特にここ何年かは、仕事をキャリア・アップや生活手段の確保といった自分目線的な捉え方より、労働を通じて仲間やコミュニティに貢献しようという意識が、若い社員においても非常に高まっているように感じられます。彼らと話していると、いつもそれが当たり前のような大前提となっていることに軽い驚きさえ感じてしまいます。
私なんかが彼らの年代だったころは、もっともっと自分むきだしでエゴエゴしていたと思うのに… 恥ずかしい限りです。

この違いはなんだろう?

思い当たるとすれば、ここ数年で弊社製品の性能が劇的に向上し、医療の最前線で手術の成否を決めるような場面に関われる機会が多くなったことが挙げられます。

製品に対するこだわりが生まれ、プロ意識、延いては使命感のようなものが強く育ってきたのでしょうか。また、もっと長いスパンで考えると、スタートしたばかりの小さい会社で不安を抱えながらもがんばり続けて、それに追い打ちをかけるように気持ちをへし折るあの震災を経験し、みんな痛みを乗り越えてタフになったのでしょうか。

手前味噌ですが正直に告白すると、そんな彼らを見ていると、この会社を始めて良かったなと、思えてしかたがないのです。10周年を経たからといって特別な感慨があったわけではないのですが、なにかしら価値あるものを創造し、それをみんなで高めていくこと、そのプロセスこそが後に振り返って祝うべき真の対象なのだとようやく実感できるようになりました。つまり私自身、お客様や協力者の方々、そしてこの会社と社員のみんなに、我慢強く手をかけて育てていただけた10余年だったのですね。

オーバスネイチメディカル株式会社は、ますます市場に強くコミットし、日本の医療に貢献すべく成長のスピードを速めていく。それこそが私がみなさまから期待されていることであると信じています。

どうかこれからもよろしくお願いします。
代表取締役社長 大場 剛

メッセージ
〜社長からのメッセージを不定期で掲載します〜

2018年6月

久しぶりに書いています。
久しぶり、というのもおこがましいほど長いあいだ書いてなかったので、はたしてまだ誰かが読んでくれているのかどうか…
いいわけですが、この4年間で会社にいろいろ変化がありました。怠惰な私ですが、まったくなまけていたわけでもないので、少しその辺の釈明をさせてください。

まず、2014年に冠動脈ステントの日米同時治験(臨床試験)がスタートして、現在までに全症例について12ヶ月の追跡調査を完了することができました。同様の製品としては国内最大規模の治験であったため、またそれを実施するのが恐れ多くも当社のような新興企業であったため、たくさんの方にご心配いただくと同時に力になっていただきました。おかげさまで2017年6月に当初予定を無事完遂し、その臨床成績も同年10月に発表された中間報告では、ほぼ期待通りのものであることが確認されました。

次に、当社の主力商品である冠動脈治療用バルーンカテーテルですが、2015年以降発売された製品が軒並み好評で、2017年の国内マーケットシェアでは、トップかそれに近い業績を上げることができました。業界全体の正確なデータがないので断言はできないのですが、全国の臨床現場での使用本数ベースで、創業当時からの念願であったNo.1を達成できたと考えてみても、あながち間違いじゃないかもしれないと思ってみたりしています(笑)

さらに。これが一番うれしいご報告なのですが、新卒採用を開始して今年で4年になりました。2015年卒の第1期生5名以降の4年間、毎年5名前後に来てもらっていますから、現在20名の新卒入社社員が活躍してくれています。
2019年卒の採用は、来年発売予定のいくつかの大型製品の準備のため6~8名と少し欲張っているので、無事入社してくれた暁にはそれこそ営業部の3人に1人が新卒入社の方になります。それ以外にも薬事やITなどの分野で、新卒社員たちは大きな力になりはじめてくれています。
たくさんの学生さんが当社を社会人としての第一歩として選んでくれたこと、みんな順調に成長し各部署で活躍してくれていること、そして当社の社員が短期間にこれだけの人数を受け入れられるほどの包容力とリーダーシップを培ったこと。私にとってこれらの成果は、かの天才少年棋士ではありませんが、僥倖としか言いようがありません。

反面、長年やってきた自分たちがなんとな~く主力を外れていくという…ともすればちょっと淋しげな現状を実感しはじめていますが、個人的にはこれがあんがい嫌いじゃないみたいです(笑) 昔からの仲間もそう思ってくれていればいいのですが… ともあれ、いったんはじめた以上、変化は留めようがありません。
むかし、ミラボー橋の上から悠々と流れるセーヌ川を見つめ、「月日は流れ、わたしは残る」とアポリネール(仏詩人)はつぶやいたそうです。Twitterではありません。学生のころに好きだった詩ですが、残念ながら会社はミラボー橋じゃないから、私といっしょに残って昔を懐かしんではくれません。会社はいつだって人ではなく川の流れとともにあるようですから。それならそれで、流れも橋もその上にいる自分も、なにもかも前向きに捉えて、いっしょくたに流されつつ盛り立てていこうかと… 妙な自覚もわいてきたこの4年間でした。
代表取締役社長 大場 剛

2014年1月

明けましておめでとうございます。
今年は元旦から香港に行ってきました。たいへん残念なことですが、会長の奥様が亡くなられたためです。

最後にお会いしたのは昨年の9月。まだ暑さの残る九州でのことでした。顔色もよく、はっきりとした口調で、またお会いしましょう、とおっしゃったのを思い出します。
葬儀で会長のスピーチがありました。57年間の結婚生活の後、彼女の人柄を表す言葉は三つあるとおっしゃっていました。 Kind, Generous, そしてModestです。自分を一番よく知る人物から言ってもらえる言葉としては、どれも最高のものではないでしょうか。上手くいっているからといって決して威張らず、苦しいときには弱音を吐かずに前向きに仕事に打ち込めば、きっとまた好転する、これも会長が奥様からよく言われた言葉だと紹介されていました。

会長やご子息、ご令嬢の悲しみには遠く及ばないまでも、私自身、喪失感を感じています。ずっと前になりますが、一言、二言、勇気づけられたことがあるためでしょうか。日本でネイチ(オーバスネイチの前身)のために努力してくれていてありがとう、日本でビジネスが少しでも好転すると、会長がとても嬉しそうにしていると。具体的な誉め言葉でもアドバイスでもないのですが、心の底から嬉しく、ありがたく感じたお言葉でした。

日本でオーバスネイチのビジネスをスタートして12年目に入ります。
まだまだ経営的に課題が多く、お客様にも社員にも申し訳なく思う日々が続いています。 それでも、苦しい状況に嘆かないで、少しずつ前向きに取り組んでいけば、いつか、万事好転する日が来るのではないかと不思議に信じていられるのです。
そういう気持ちは、きっと、過去にいただいた、会長や奥様はじめ、いろんな方の励ましや気遣いの言葉によって培われているのだと、つくづく感じながら帰ってきた旅でした。
Mrs. Jeanne Chien, 謹んでお悔やみ申し上げます。
代表取締役社長 大場 剛

2012年11月26日

最近よく週刊誌や情報サイトなどで「ブラック企業」という言葉を目にします。ブラック企業の定義はよくわかりませんが、実際に記事を読むと、社員を不当に搾取する企業とか、インチキ商売を行っているところ、みたいに文字通り法的にブラックな犯罪集団だというより、社員に対する扱い方が極端にドライであるとか、売上ノルマや経費削減に対する基準が異様に厳しい企業、つまり、社員に対してあまりフレンドリーでない企業、法的にはブラックというより、見た目グレー内実ブラック、というような意味合いで使用されているケースが多いと思います。

さて、もちろん本当にブラックであったなら、それを擁護するつもりは毛頭無いし、どんどん糾弾すべきだと思いますが、さしたる根拠もなく、あそこブラックだから、みたいな言い方をしている場合はだいぶ話が変わってくると思います。もちろん弊社も過去に辞めていただいた社員の方にブラック呼ばわりされたことがあるし、私自身、会社で起こったできごとを知らずにいて、それを苦にして辞めていった方に個人的に謝ったこともあります。 そういった方々が弊社をブラック呼ばわりするのは仕方がないと思うし、それをいちいち言い訳するつもりはありませんが、ひとつ、困ったなと思うことがあります。それは人材の募集に関してです。

弊社は創業以来ほぼ毎年、メディアを通して人材募集を行っています。しかも複数メディアを利用して複数回行っている年がほとんどです。それ以外にもHP上ではいつも募集しているし、人材紹介会社にも常時紹介をお願いしています。最近、それを知って、あそこは社員が居着かないからいつも人手不足なのか、と考える人がいると聞かされ、新鮮な驚きを覚えました。

優秀な人材の確保にいつも注意を払うことは、企業として当たり前のことだと思っていましたから。それが取りようによってはネガティブな印象を与えてしまうものなのかと。個人的には資金の許す限り人材募集の手を拡げて、いろんな人に関心をもってもらい、面接をしていただき、できれば弊社でその力を発揮してもらいたいと思っているのに、それがかえってブラックっぽい印象を与えていると言うのです。それが本当なら私は過去の募集活動を猛省しなければなりません。志はどうであれ、結果的に会社のイメージを悪化させることに繋がってしまったのですから。

でも、かといって人材募集を止めると組織も活性化しにくくなり、成長を加速するどころか維持することすら難しくなります。うちみたいになるべく業界外の方に来てもらって、新しいアイディアを導入したいと考えている企業には、外から入ってくる新しい血は生命線だと言っても過言ではないくらい重要なのです。新しい社員を求めることと、すでに働いてくれている社員を大事にすることは、短期的にはそれぞれ全く別のことですが、私の頭の中では長期戦略的に完全にリンクしていて、相互依存というか密接に補完し合う関係だと考えているのです。

さんざん言われ尽くされていることですが、企業は人だと私も思います。人の創造性が製品やサービスを生み、人の意志が組織力を育み、人の個性が多様性を生みさらなる成長へのヒントを与えてくれるものだと信じています。弊社が常に優秀な人材を募集するのは、事業規模の拡大によって慢性的に人手不足だからではありません。ましてや人材を逃してしまう故の穴埋め的補充活動でも断じてありません。それらが起こっているとしたら、それはあくまでも第三者的に見た場合の結果論であって、実際に起きていることは真逆だと思います。
成長しているから採用するのではなく、ずっといつも新しい人材の獲得にやっきだったからこそ、成長し続けることができたのです。新しい人がもたらす直接的な力と、新しいマンパワーと能力を手に入れた既存の組織のパワーアップがもたらす相乗効果によって、弊社の成長はどんどん加速されてきたと確信しているのです。

とはいえ、私がどんなに組織と成長に関する持論を展開しても、怪しく見えてしまう人にとってはよけいうさん臭く思えてしまいますよね。この文章をUpするだけでも採用の人から叱られそうで怖いです(笑)
募集を止めるわけにもいかないし、なんとかご理解いただける方法はないかと思いますが、よく考えたら、それこそが人事面接の持つ役割なんですよね。
弊社の人材募集をどこかでご覧になった方が、意気投合!と思っていただけるならそれこそぜひ、そうでない方でも興味を持ってくださったら、ぜひ、一度私たちに会いに来ていただけたらと思います。袖振り合うも多生の縁と言いますが、70億人も住むこの世の中で、私のこの拙文を読んでいただけているだけでも、かなり「縁」は深いのではないでしょうか。

いつの日か、お会いできることを楽しみにしています。
代表取締役社長 大場 剛

2012年4月4日

たいへんご無沙汰しています。
自分で始めておいてほんと恥ずかしいのですが、永らくこちらに書き込んでいませんでした。書きたくなかったわけではないのですが、昨年3.11の震災以降、何も書けなかったというのが実情です。すべてのことが、実はたいした問題ではないように思えてしまって…

震災に関しては、たくさんの人がたくさんのことを書いていて、そのほとんどどれもが共感できるものだったので、今さら私なぞが何か言おうとは思いません。ただただ、被害に遭われた方たちがいつか救われる日が来ることを願うのみです。私なんて自分の娘がまだ幼かったころ、ころんだりするのを見るだけでうろたえたりしていたのに、目の前でご家族や友人を亡くされた方や、未だ行方不明の方を探している方たちのことを思うと、本当に、自分の周りに起きているような事柄に対して、いったいなにを問題提起していいのか、はたしてする価値があるものなんてあるのか、見当もつかなくなっていました。

そうしているうちに、自分が公の場所で話をすることが大の苦手になっていることに気付きました。それまではどちらかと言うとしゃべるのが苦手な方ではなかったのですが、いったん混乱するとダメですね。どんな話をしても話しているうちに無意味・無価値のように思えてきて、言葉が出てこない。出てきても話がまとまらない。文字通り話が "go nowhere"(どこにも行かない)になるのです。そんな調子ですからあちこちで自分が動揺していることを痛感させられました。
それだったら脇見をせず、なにも問題視したり批評したりせず、ひたすら自分ができることだけを推し進めようと思い黙々と一年間やってきたのですが、最近になってようやくわかってきたことがあります。それではやっぱりダメなんだ、ということです。

結局それは、今までことあるごとに私たちがとってきた常套手段、物事をスルーして、何事もなかったかのように元に戻したがる姿勢と何も変わらないのではないかということです。それが必ずしもいけないわけではないのでしょうが、3.11を機に、なおざりにされてきた危機管理体制や事後処理の手際がこれほど国の内外で叩かれるのですから、やはりみんな今までのままでいいとは思っていないことがよくわかります。そういう意味で、私がやってきたことはやっぱりダメな部類に入るのだと思います。

ビジネスの世界では、どんなに予防しても必ず問題は起きます。そもそも競争自体が変化をもたらそうとする行為そのものなのですから。問題が起こってしまったら、次に備えて対処するのは当たり前のことですし、そのスピードや徹底ぶりが如実にその会社の業績に影響します。
そのサイクルは良くも悪くも競争の程度、つまり市場原理によって支えられていて、時に残酷なほどに会社やそこに所属する人々に打撃を与えますが、 二度と同じ轍を踏まないように改善・改革することも要求するようにできている、つまり、現存する企業の多くは、市場の中にあって、 問題に上手に対処してきたからそのメンバーとして生き残ってきたのではなく、事前に対処し、その対処がたまたまうまくいったから生き残り、そういう企業によって現在の市場が形成されているということになります。

ゾウが生き延びるために鼻を伸ばしたのではなく、環境の変化のために適度な高さの植物が減り、身体の大きな生き物たちは、鼻を伸ばして地面の草を口に運べるものしか生き残れず、結果、現在ゾウと呼ばれる動物として生き残ったことと同じです。それは、キリンやアリクイやシマウマも全部いっしょだし、おそらく人間もそうなのではないでしょうか。「進化論」によれば淘汰の理論は競争が厳しくなればなるほど、どんなに保護されている環境にも必ず襲いかかるのです。

私たちの住む国や自治体はビジネスとは違うと言われるかもしれません。それはその通りでしょう。ビジネス的な、どこが利益を得たとか、どこが業績を落としたとかの競争はないでしょう。しかし、人間が共同して生きていくための社会単位は、本来、ビジネスなんか比較にならないほど、もっと激烈な競争環境に置かれているのではないでしょうか。下手するとそこに所属する人間の生き死ににまで影響してくるのですから。その社会単位を規制で縛り上げ、再配分の理屈とかで過度に競争の有無をごまかし続けることが果たして本当の意味で国や地域社会の活性化につながるのかどうか、無力な人間が唯一持っている生き残りのための強力な武器「創造性」を萎えさせてしまうことにならないか心配になります。

いや、それ以前に競争を誘発しないシステムの中では、住民の安全に関わる事柄でさえ選択の余地がない状況のまま放置されてしまう危険性があると思います。人々の活動を管理したがる側と管理されていることに気付かない側、物事を秘密にしたがる者と秘密の存在さえ知らない者、何事も二極に分かれる状況は決して国民が目指したところではないのでしょうが、今、国中のみんなが気にしている諸々の問題は、ほぼすべてがこの二極化の進展によってもたらされている問題とは言えないでしょうか。

現在、日本ではもちろん、欧米はじめあらゆる地域で民主主義の弱点が指摘されていますが、多数決を背景にした統治システムが、人権意識の向上と、経済の発展とともに、むしろ全体主義的な国家を形成させるファクターになりえる可能性はだいぶ以前から指摘されてきました。当たり前ですよね、多数の求めるモノが与えられる、と言うより、それしか与えられないのが民主主義の原理なのですから。大切なのはその「多数」が何を求めるのか。アメリカのように「自由」を重んじるのであれば、極端な格差社会になるでしょうし、日本のように「結果平等」を重んじれば当然行き着く先は社会主義がもたらすものと似たようになります。

日本は、国民意識が自発的に高まる前に、つまりニーズを自覚する前に、外圧によって半ば付け焼き刃的に封建主義から脱却した結果、国民の意識に大きな差があるまま民主政を標榜するようになってしまったと指摘されています。ここで政治的なイデオロギーを論じるつもりはありませんが、なんであろうとせっかく始めたのですから、それをもっと活かす仕組みを造った方がいいのではないかと思います。

何が与えられるかを待っているのではなく、何が得られるのか自分たちで決める、それが民主主義本来のテーゼだったはずです。そのためには、先ほど述べたように、確信がなくても自信がなくても、言葉を尽くすことが大切なんですね。でしゃばらずに黙々と自分の作業に励むという姿勢は、時と場合によっては美徳でなくなることもあるというわけです。「民」が参加しなければ、そもそも民主主義は成り立ちません。自分の所属する社会をもっと価値のあるものにするために、誰かが何かを決めるのを待っていたり、それこそ救世主が現れるのを待っていたりしても始まりません。そもそも救世主とは、先程の話で言えば、きっとだいぶ後になってからそれとわかるものなのでしょうし。

というわけで、私も、自分の知識が足りない分野でも、つたない言葉で恥ずかしく思えても、きちんと思うことを人に伝えていこうと思い直しました。
そこに価値があるとかないとか、考え始めると誰もがニヒリスト(虚無主義者)になってしまいます。ニヒルな人ばかりでは、とても自然淘汰を免れるとは思えませんから。
代表取締役社長 大場 剛

2010年12月2日

早いもので、もう今年も最後の月となってしまいました。
いろいろあった一年ですが、個人的には最初に勤めた会社、某大手航空会社が倒産したことがとてもショッキングな年でした。

最近、実家に帰った折、父親から残念な話を聞きました。その航空会社で長年機長を務めていた人が退職勧告を受け、定年前に会社を去ることになったそうです。
父親は以前やはりその航空会社でパイロットをしており、その機長の教官だったこともあり、挨拶がてら近況を伝えにいらしたとのことでした。私も以前、何度かお会いしたことがありましたが、機長としてプロ意識が高く、たいへん立派な方でした。普通の大学を卒業した後、自社養成のパイロット候補生として入社し、勉強を続け、最も大きい旅客機の機長を20年以上務めあげた後、突然の退職勧告を受けたのです。

一昔前まで、航空会社は飛行機を資産と考え、大型旅客機を購入し長く大切に使うことが一般的でした。
しかし、技術の進歩と航空需要の拡大にともなう旅客ニーズの多様化により、大量輸送の必要性が漸減すると、旅客機の主役は、新しい=燃費が良い小型旅客機に切り替わり始めました。最新の小型低燃費旅客機を購入したりリースしたりして、できるだけ燃料代を浮かし、時代遅れになるとすぐに売却してしまう。大手航空会社は競争力を高めるため、旅客機をもう資産として扱えなくなってきたのです。

パイロットは、乗務するためにいくつもの免許が必要なのですが、飛行機の種類が変わると、機種免許を取り直さなければならない。手持ちの免許で飛べる機体が少なくなれば、仕事は失われていくのです。父親は当然、同情的でした。会社の方針にまっすぐに従い、まじめに仕事を続けてきた人間に対する仕打ちとしてはあまりにもひどいと思っているようです。私もそう思います。
しかし、会社の経営責任の問題はさておいて、そこにこそ、企業の経営者や社員が抱える大きな問題点が潜んでいるとも考えました。よく言われる思考停止状態の問題です。父親やその機長のように、会社の方針に従いまっすぐまじめに、という部分に大きな危険が潜んでいるような気がするのです。

時代が変わる、市場が変わる、人間が日々互いに影響し合い変化していくことによって、職場を取り巻く環境も絶えず変化しています。その変化を意識しながら目標を立て、それを達成していくことが全ての仕事の基本ならば、目標達成のために採るべき手段も、その時々によって変化していくはずです。例えは悪いですが、戦争に勝つことが目標ならば、いつまでも刀一本で戦っていて良いわけがありません。もし会社の方針と手段の有効性に疑問を感じたのであれば、その疑問を感じた本人が、より適切な手段を用いるべきことを主張することが最も理に叶っていると思うのですが、そのためには見たくない現実を見つめ、考えるのも面倒な複雑な問題に目を向けて、状況分析と対応策を考え続けなければならなくなります。

失礼ながら、父親も機長も、いちパイロットとしては有能だったかもしれませんが、果たしてそういう努力をしてきたかどうか。航空需要がどのように変化し、対応するためにはどのような手段を講じ準備をしなければならないか。そして今、自分たちの仕事をどう変化させていくべきか。そういうことを考えるのは自分たちではなく、そういう部署のそういう適正を持った人たちがやればいい。そんなふうに割り切り、その部分に関する思考を停止してしまったのではないでしょうか。時代が時代ならばそれで良かったのでしょうが、その時代が変化した故に、その機長は職を失うことになってしまった事実は否定しようがありません。

竹を割ったような性格、一本気な性格、白黒はっきりつけたい、不器用な人間ですから(笑)、日本人はそういうわかりやすく、二面性のない性質が大好きですが、それは、逆に見れば、なかなか解決しない、もしくは答えのない問題に忍耐強く取り組む性質を持ち合わせないからではないかと思うときがあります。自分がそうだから、そういう性質が強い人を見ると安心するのではないでしょうか。物事を中途半端な状態にしておくことが気持ち悪くて仕方ないので、すぐに結論を出してしまうか、そもそも最初から取り組まないか、少なくても、中途半端を中途半端なままでヨシとする考えは少ないように思えます。

議会制民主主義発祥地の英国では、貴族は幼少の頃から学校で、決して解決しない問題と忍耐強く取り組む訓練を行うと読んだことがあります。わかりやすい解決をすぐには得られなくても、現実社会の諸々の矛盾をありのまま受け止め、逃げずに真摯に取り組む姿勢を身につけるためにそうするらしいですが、確かに議会制民主主義こそ、永遠に解決しない人間心理の矛盾の上に成立している制度そのものですよね。さすが老舗は違うなと思います。
翻って日本では、どうせ解決しないのだからやるだけ無駄、考えるだけ損、と、すぐに取り組みを放棄してしまうのがむしろ美徳とされているように感じます。

また例に出して申し訳ないのですが、「自分はただの飛行機乗りだ。経営の問題は経営者に任せるから、自分は離陸してから着陸するまでの乗務にだけ責任を持とう」という姿勢がもしあったとすれば、それはもしかしたら、面倒な問題に自ら取り組むことをせず、もっとも得意でもっともわかりやすい部分だけに自分の責任を限定するための思考停止状態を正当化しているだけなのかもしれないと疑う必要はないのでしょうか。

どこの業界もどこの産業も成熟すればするほど、仕事の流れは多様化します。定期的に多様化した仕事を評価し、それぞれの役割を定義し、そこに最適なスキルを持った社員をあてがうことによって分業化は初めて有効に機能するようになります。しかし、もし分業化された部分が、自分たちの責任はこれだけだからと、無理矢理仕事を区切り、範囲を広げようとせず、思考停止状態を決め込んだら。その部分だけは独立し、仕事の流れから遮断されることになってしまいます。
それはすなわち、本来、目標を達成するための手段としての分業化であったものが、一瞬にして小さく分断された目標そのものになってしまうことを意味します。戦争に勝つことが目的ではなくなり、「刀をじょうずに使って戦うこと」もしくは「そういうかっこいい自分を見せること」が目的になってくるわけです。かくして、手段の目的化=思考停止を維持するシステムができあがってしまうと推察します。

あたりまえですが、私自身の回りにも、直視したくない現実や、考えるだけで気が重くなるような「予見できる未来」の姿がたくさんあります。白黒はっきりつけるから!と言って、適当に決断して解放されたい問題が山積みです。しかし、自由主義社会の現実とは常にそういうものなのでしょう、解決したくても解決できない問題が次々に降りかかってくる。であれば、一つ一つ丁寧に対処し、解決を急がず、いつもその時々の最良の方法をもって対応していかなければならないとアタマでは考えます。
ものすごく気が重い話ですが、ストレスと上手に付き合いながら、なるべく思考停止状態に陥らないように、解決できる問題はなるべく早く、そうでない問題はゆっくり時間をかけて丁寧に。決して手を抜かず、目的と手段の逆転に注意しながら、一歩ずつ前進させていなかければならない…、というのが優等生的な答えだとわかっていても、それがいったいどれだけの精神力を要することか。理屈で考えてそういう結論を思いつくだけで両肩にバーベルが乗ったような気分になってきます。

まじめ一辺倒に働いてきた人が突然仕事をなくす。最近よく聞く話ですが、いくら会社が悪い冷たいと嘆いたところで仕事を失う事実は変わりません。そういう悲劇をなるべく回避するためには、経営者も社員も常日頃から思考停止状態を避ける努力を払う必要があります。元来、心理的な負荷が持続する状態に慣れていない日本人にとって、それがいかにストレスフルなことであったとしても。他の会社の人からは教訓として学ぶことができますが、もし自分の会社に、方針に従いまじめにがんばったのに報われなかったという社員の人がひとりでもいたら、それは会社がひどい!などと言っていられないですから(笑)

We Fight the Blues!
宇多田ヒカルさんの歌詞ですが、「答えはメンタルタフネス!」だそうです。ぜひあやかりたいものです。

みなさま良いお年を。
代表取締役社長 大場 剛

2010年6月7日

最近、ことあるたびに、社員のみんなに「もっと働こう!」って呼びかけています。
…いやな社長ですよね。これだけ労働時間や環境の問題が取りざたされているご時世に、何を言っているのだろう?社員の負担を軽減して、待遇を向上させるのがおまえの仕事だろうって、苦々しく思う人がいて当然です。
もちろん、それは可能な限りがんばろうとは思っているのですが、それとは別に、もっとお客様にお会いして、もっとお話しする機会をいただいて、もっともっとニーズにお応えしたいという意欲を持つように仲間に呼びかけていくことは、 経営者だろうが社員だろうが、会社人として根源的に大切なことだと思うのです。

私が社会人になって最初に考えさせられた言葉は、リッツ・カールトンの創業者セザール・リッツ氏の「お客様の言うことはいつも正しい」という実にシンプルかつ深遠な一節です。当時の私は空港で毎日何百人というお客様からの苦情や要望の対応に追われていて、どうして旅客ってこんなにわがままなのか、なぜ無茶なことばかり言うのだろう、と当初思い描いていたサービス業のやりがいみたいなものと、厳しくなまなましい現実のギャップにだいぶ苦しんでいました。いくら料金を支払っていると言ったからって、常識ってものがあるだろう、などと、自分の方に正義があると言わんばかりに考えていました。

その自己中心的かつ不遜な考え方を破壊してくれたのが上記の言葉です。

最初に読んだときは、この人、いったいなにを言ってくれちゃってるのだろう?と思いました。非常識なことを要求するお客様がこんなに多いのに、「いつも正しい」わけないじゃないか。どうせ根拠のない景気づけのスローガン的なものだろう、労働者の敵め!と、むしろ腹立たしく感じました。でも、あれほど成功した実業家がそんな中身のないセリフを言うわけがないし、なんかおかしいな、と多少疑問には思いました。

で、成長しないまましばらくたった後、もう一つの言葉に出会いました。かのマハトマ・ガンジーが実業家時代に残した「私たちはお客様に依存している。しかし、お客様は私たちには依存していない」という有名な社是です。そのときに初めてリッツ氏の言葉の意味が自分なりに飲み込めました。お客様は、なんの強制もないのにご自身の意思で自分たちの商品やサービスを選んでくれているのだと。お客様には対価に相当するものを要求する権利があるし、その「相当する」部分を決めるのは、依存している私たちではなく、私たちを選んでくれたお客様に他ならないのだと。
であれば、「お客様の言うことがいつも正しいわけがない。むしろたいていの場合、理不尽だ」ではまったく道理が立たず、「お客様の要望はお客様にとってしごく当然だが、私たちには、残念ながら、どうしてもお応えできないこともある」で、 はじめてサービス業というものが成り立つことが理解できたのでした。

さて、現在の私たちの仕事は、医療の専門家であるお客様に、専門家しか用いない器具機材を提供することです。いわゆるプロフェッショナル・ビジネスです。プロフェッショナル・ビジネスと一般消費者向けのビジネス(コンシューマー・ビジネス)において、顧客が購入したい商品を認知する段階で生じる違いに注目したとき、私は、このビジネスを例にして言えば、商品に関わる情報が日常生活の中で勝手に入ってくることがないという点が重要だと思います。
テレビを見ていても心臓カテーテルの宣伝はやっていませんし、電車の吊革広告や電光掲示板では新しいステントの情報は入手できません。それは、エンドユーザー(この場合は患者さん)の誤解や偏った情報の氾濫を回避するという意味で必要な法規制によるためなのですが、ドクターは忙しいなか、専門雑誌を読んだり、研究会で症例発表を聞いたりして、すべて自ら使用する薬や機材の情報を入手する必要に迫られます。

実際、私たちのお客様である循環器のドクターの忙しさは恐れ入るもので、日々の診療や管理業務に加え、勤務時間以外でも学会、研究会、説明会、講演会など週末まで予定がいっぱいで、月に一日休めればいいほうという方も少なくありません。そんな中、私たちが自分の商品とサービスについて紹介できる機会は当然限られてきます。お客様がご自身のプロフェッショナリズムのために時間と労力をフルに使っているとき、休んだり手を抜いたりしているメーカーなど相手にされないのは当然なのです。そんな調子では、選んでいただくもなにも、先の例ではないですが、お客様が「正しいことを言う」機会さえ、提供できないのですから。

B to Bのビジネスでは、往々にして、エンドユーザーの便益のために双方のBの目的が一致している場合が多いのです。であれば、どちらかのBだけがハードワーカーでは健全なビジネスリレーションシップは成立しません。私が社員のみんなに「もっと働こう」と言うことによってもっと気にしてほしい、もっと考えてもらいたいのはこの部分です。
お客様が患者さんに有益な製品や情報を入手しようとする努力に負けないくらい、情報を発信する機会、ご要望を直接お聞きする機会を求めてハードワークすることがこのビジネスを成立させる根底となっていること。そうすることによってはじめてお客様の「いつも正しい」要望を聞くチャンスが生まれるからであり、さらに努力すれば、依存させていただく機会も生まれるからに他なりません。

言葉だけ聞けばイラッとくるかもしれませんが、一応、そういう気持ちから言っているつもりなので、社員のみんなにはぜひ前向きに解釈してもらえるとうれしいです(笑)
代表取締役社長 大場 剛

2009年12月22日

そろそろ2009年も終わりに近づきました。みなさまの一年はいかがだったでしょうか。

弊社では2年ほど前に一度、全社員を対象に職場環境改善のための匿名アンケート調査を行いました。今年はそのときに立ち上がったいくつかのプロジェクトが終了し、社員数も増えたので、2年ぶりに同様のアンケート調査を実施することにしました。このアンケートはだいたい3回に分かれて実施され、それぞれの内容は、

1.おおまかな問題抽出
2.現在の社内環境に当てはめた上での問題抽出
3.作成した改善案とアクションプランに対する満足度調査

になります。2番目のアンケート実施後に、プロジェクトグループが回答の分析と改善案の策定を担当するのですが、今回もいやはや、すごいことになっています。ほんとうに自ら関わらなくてよかったと胸をなでおろしています(苦笑)

問題点として挙がっていた項目のひとつに「ガイドライン」というものがありました。日本語では「指針」とか「方向付け」とか訳されるのでしょうが、いわゆる、ものごとを進める際の原則的な取り決めのことです。言葉で言えば「ま、通常は、ここに書いてある感じでやってください」くらいがふさわしいのでしょうか、私の認識としてはせいぜいこれくらい。ルールを決めるまでもない些末なことがら、もしくはどちらかというとルールを決めたくない、融通が効いた対応が必要なことがら、これらをほうっておくわけにもいかないので仕方なく作成するレベルのものです。
ところが、実際には「ガイドライン」を私と同様、単なる目安として考えている人と、そうではなく「ルール」だと考えている人に大きく分かれるので、これにはとても驚かされました。

会社として私が一番大切にしたいと考えているのはオリジナリティです。これは製品しかりサービスしかりオペレーションしかり、すべてにおいてそうです。競合する会社にくらべてどれだけ違ったことができるか、どれだけ新しいことができるか、それでその会社の持つ潜在的な競争力は決まってくると信じるからです。社員のみなさんにはぜひ創造力を養ってもらいたいし、それを積極的に発揮してもらいたい。できれば決まり切った作業でも、毎回なにかしら工夫して行う習慣を身につけてほしい。おおげさに言えば、同じことは二度とやらない、くらいの意気込みでつねに何か新しいことに取り組んでもらいたいのです。

ですから、極端に言えば社内に「決まり事」はないほうがいい。もちろん製品を製造管理するような部分ではそうはいきませんが、きちんと他者に説明さえできれば、毎回同じことを違うやり方でやったほうがいいとまじめに思っています。同じ仕事を毎日繰り返せば熟練度は上がります。その要素が大切な仕事はたくさんありますが、逆にそれがさらなる発展の足かせになってしまう仕事もあると思います。
たとえばサービス。毎回同じサービスを繰り返せば、顧客も本人も飽きてくるに決まっています。人間の満足度とは相対的なもので期待値は上がる一方ですから、そこに妙な熟練度は要らないでしょう(笑)
ガイドラインとは文字通りみんなを同じところに導くものです。同じところに行かせたくない人には、あまり見せたくないじゃないですか。

ではどうすれば、常に顧客の満足度を高めることを念頭におき、新しいアイディアを思いつきやすい環境を創ることができるか。

世の中にはみなが平和で安全に暮らすことができるようにいくつものルールやガイドラインが存在します。代表的なのは法律で、これは法治国家なら当たり前のことです。 社員は当然、会社の内外でも法律には従わなければなりません。しかし、それとは別に社内にルールやガイドラインをたくさん設ける意味はどこにあるのでしょう?

平和と安全ならば国家の法律で担保されているはずですから、特に危険な仕事をしていないかぎりそれ以上は不要でしょう。サーカス団の一員だったり、オフィスにトラがいたりすれば話は別ですが。社内にいろいろルールを作るメリットは、突き詰めれば、おそらく業務の効率化と公平感の維持に尽きるのではないでしょうか。ルーティンによる「熟練」でスピードを上げミスを減らし、全員が同じルールに従うことによって不公平感を排除する。これだけ見れば確かにたくさん作るのは有益なようですが、それによって工夫する余地をなくしてしまったり、突出する機会を取り上げてしまったら、仕事の質によってはデメリットの方が大きくなりはしないでしょうか。

理想を言えば、厳格なルールを守りつつ、そこから逸脱するときには素早く思い切りよく、というような話になるのでしょうが、日々そういう環境下で仕事をしている人間が、そのような思考回路と行動特性を保持し、なおかつそれらを必要に応じて発揮するのはとても難しいと思えます。
やはり日々クリエイティブな気持ちで働けるような環境を用意してあげなくてはなりません。多少の業務効率の悪さや不公平感には目をつぶっても、社員のみなさんにはぜひ、なるべく自由になるべく新しい発想をもって仕事と向き合ってほしいと思うのです。であるがためにルールよりガイドラインなのであり、ガイドラインより何もないのがいいと思うのです。

家庭におけるガイドライン、否、ルールに関する考察については、来年また日をあらためてお話ししたいと思います(笑)
みなさま良いお年を!
代表取締役社長 大場 剛

2009年11月26日

冬が近づき、コートを着る機会が増えてきました。
今年も残すところあと6週間ほど、さまざまな人に助けていただき、なんとか成長を維持しつつ乗りきることができそうです。こころから感謝申しあげます。
来週からは今年度最後の新入社員がまた5名ほど入社してきてくれるようです。たいへん喜ばしいことですが、こんなに社員を採用しているのに、なぜこの会社は社員数がめだって増えたりしないのだろう??
って考えるまでもなく、辞めていく人が多いからです ---- とんでもないですね。社長としてはこれ以上に恥ずかしいことはないのかもしれません。

社員の入れかわりが多い会社。なんか聞こえが悪いですよね。私自身、社員だったころは何度か転職しているので、そういう会社にあまりよいイメージをもてなかったでしょう。でも、それって内容によりませんか?

うちの場合、毎年社員の約10〜15%が入れ替わっている状況がここ数年続いています。一般の外資系企業としてはちょっと多めなのは否めません。しかしその反面、設立後1〜2年で入社して、引き続き活躍してくれている人たちの割合も高いのです。設立してまだ7年の会社ですが、入社5年目以上の社員は全体の30%以上を占め、ほとんどの人が要職に就いています。単に初期メンバーばかりを盲目的に優遇しているだけなら、毎年、社員増に従ってこの数値は低下していくはずですが、横バイ、いやむしろ増加しつつあるということは、入社年度ごとにコアとなっている社員が一定数いて、その人たちが5年目を迎えるたびにこの数値を押し上げてくれていると言えます。

要するに、けっこう初期に会社文化というか、社員の価値観の骨格が形成され、それに合っている人は長く残って働いてくれているし、そうでない人は早い段階で辞めていくケースが多いということではないでしょうか。これってあんがい悪くない内容かなって実は思っています。

私が最初に就職した会社、今、かなり話題の某大手航空会社ですが、それこそ、そこの離職率は低かったです(笑)
あえて断言しますけど、20歳や22歳で就職して、60歳で引退するまでの間、会社を辞めることをまじめに考えた人は絶対に1%もいなかったと思います。
実際に辞める人は、ほとんど、問題を起こした人か実家の商売を継ぐ人、女性なら家庭の事情など。転職のために辞めようとした人なんて、少なくても当時私が知っていた数百人中で二人しかいませんでした。実際、私も辞めた理由を説明するのに苦労しました。絶対なにか問題を起こしたのだろうって(笑)

さて、みんなどれだけ会社が好きなのかと思いますが、内情はむしろのその逆に近く、多くの社員がことあるごとに開けっぴろげに会社の悪口を言ってるし、休職者や欠勤者は多く乗務員の稼働率も低かった。どんなに不満があっても会社がきらいでも、結局はそこから得られる待遇と安定の魅力だけは放棄したくない。建設的でなくなった人たちの吹きだまり感があちこちに満ちていて、気分が悪くなるほど閉塞感の強い職場でした。

で、飛びだしてしまいました。

社員のみんながみんな、いい待遇を得られて、それで会社が潰れないなら、社員は辞めないし、辞めさせる必要もありません。当然離職率は低く収めることができます。そういう尺度で人が辞めない会社が良い会社の条件だというのであれば、確かにそれはそうでしょう。
でもそれは難しい。もちろん、まずそれだけ企業として成功することが難しいというのがありますが、もっと難しいのはそんな状況を長続きさせることです。他社が投資に回している分をみんなに分け与えてしまっているわけですから、将来に禍根を残さないわけがありません。事情は異なる部分も多いですが、某航空会社が現在どのような姿になっているのかを見れば一目瞭然です。

会社を何年もやっていれば、社員を大切にするのは経営者にとって当たりまえ以前に資質だと言っていいほど大切なことなのはわかってきました。しかし、全社員に分け隔てなくそれを行ったからといって、すべての社員にとってそれが幸せをもたらすとは限らない。そして間違いなく長期的にはすべての社員に害悪をもたらす。そうしたこともようやくわかってきました。

幸せにはさまざまな側面があり、どの側面を大切にするかは個々の社員の価値観によるのであれば、同様の価値観を大切にする社員が集まり、それ以外の人が離れていくことは、会社という容れ物にとってごく自然の姿であるように思えます。できうればその許容範囲は広いほうがいい、そして深い方がいい。そういう方向付けに対する努力は怠ってはならないが、その宿命的な活動を操作し、強引に、入れるだけ出すだけと機能を制限することは会社の寿命を縮めかねない。

航空会社を離れて17年がたちましたが、そこには、同期生や同僚、上司、後輩など、たくさんの知り合いが働き続けています。いまだに懇意にしている人たちも多い。彼らの不幸によって自分が勉強したとは思いたくないですが、彼らの20年超と現在の自分の会社が抱える問題点と考え合わせると複雑な思いです。
せめて自分は、責任を持つ80名の社員のために、会社がいつまでも自然な呼吸を続けられるよう、健康管理に気を遣いつづけていきたいと思います。

そうそう、ちなみに、某航空会社の私の知り合いたちは、多くの人が会社更生法の適応を望んでいます。つまり一回つぶれてしまえばいいと。そのほうが負の遺産をぜんぶ整理できて、一からスタートできると息巻いています。みんな40歳過ぎての逆境に敢然と立ち向かう気でいます。うれしいじゃないですか!!
代表取締役社長 大場 剛

2009年4月8日

春になり、当社でも新しく入社された方たちが熱心に研修を受講しています。
今年は不況の影響が著しいようで、就職活動をされている方たちもたいへんだな、と、私自身、バブル崩壊後にこの業界に転職した当時を思い返しています。
幸運なことに、私が新卒で就職したときはバブル最盛期で、あまり優秀な学生ではなかった私でも、当時希望していた企業に就職することができました。
また、4年半後に転職したときは、逆になるべく小さくなるべく自由度の高そうな会社を探していたので、バブルが崩壊した後であったにも関わらず比較的スムーズに転職することができました。
もちろん、今考えればたまたまそうなっていただけの話で、時代の真っ只中にいた当時の私には、そんなこと狙うどころか思いもつかなかったことでしょう。ただただ自分の希望を叶えたい一心で、働いて悩んで 転職して勉強して、とバタバタやっていたに違いありません。
ものすごくザックリと言って、人がみな、それぞれの幸せを追い求めることによって、自分自身を少しずつ変えたり、他人に影響を与えたりしていくゆえに、世相や景気も常に変化し続けているのだとしたら。その時その時に自分がしたいと思うことを真剣に行うことがもっともこの世のオキテに適っている気がして、なんとなく気が楽になってきます。
現在研修を受けている新しい仲間たち、そして現在すでにバックオフィスやフィールドで活動している同僚たち。みんなが、その時その時で自分が一番したいことができていればいいなと願います。
というか、そう思うと気が楽になります。
がんばって。
代表取締役社長 大場 剛

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